定山渓温泉

定山渓温泉

札幌の奥座敷と称される山間にある定山渓温泉

北海道・札幌の奥座敷と称される山間にある定山渓温泉。賑やかな札幌市街地から、南に約26kmのところにある支笏洞爺国立公園内に位置し、国内はもとより、海外からの旅行者も良質の温泉を求めてこの地を訪れる。

数多くの渓谷や多種多様な草木を目にすることのできる、自然豊かな周辺環境も素晴らしい。一年のうちでも、とりわけ美しい自然を楽しめるのは秋。山を紅に染める紅葉は、その見事さで見る者を圧倒する。さらに、例年10月から見られる雪景色の美しさも文句なし。開湯の歴史は古く、1866年に修験僧・美泉定山がアイヌの人々の案内で泉源と出会ったのがはじまりとか。周辺には豊平峡ダム、定山渓ダム、そ札幌国際スキー場など、観光施設も充実。

定山渓温泉特徴

定山渓温泉街に湧き出ている温泉は、無色透明でまろやかな塩辛さが特徴のナトリウム塩化物泉(中性低張性高温泉)で、国内では最もポピュラーな泉質のひとつです。入浴すると肌にこの塩分が付着し、汗の蒸発を防ぎ体の芯からポカポカ温まります。
定山渓温泉の泉源は56カ所あり、そのほとんどが温泉街を流れる豊平川の月見橋付近と高山橋付近に集中していて、川岸や川底の岩盤の割れ目から豊富に自然湧出しています。その量じつに毎分8600リットル、湧出温度も60~80度と高温で量・質ともに自慢のお湯です。
湧出のメカニズムは定山渓の豊かな森林と切り離せません。定山渓温泉は薄別川、白井川、小樽内川の3本の川が豊平川の本流に流れ込む地域にあります。つまり、それぞれの川を広げた扇の骨に見立てるならば、骨を束ねる要に水源の森・定山渓が位置しています。そして広げた扇の先には、温泉街にほど近い朝日岳、夕日岳、遠くは春香山から余市岳、無意根山、空沼岳に至る山々が連なっています。この広大なエリアで地中にしみこんだ地下水が温泉の源になっていると考えられています。定山渓の温泉は、森の滴と大地の情熱でつくられていると言えるでしょう。
泉質/ナトリウム塩化物泉
効能/貧血症、冷え性、神経痛、筋・関節痛、五十肩、切り傷、やけど、慢性婦人病、病後回復など

定山渓温泉歴史

定山渓温泉は豊平川の川底から湧いており、その川沿いに温泉街が広がる。2005年現在ホテル17、公共宿泊施設7があり、他に会社などの保養所も多い。河童にまつわる話が残ることから、街路に多数の河童の像が置かれている。足湯、手湯はそれをモチーフにしている。
定山渓温泉の存在は古くからアイヌ民族に知られていた。江戸時代には、松浦武四郎が旅行中に川の中に湧く温泉に入ったことを記しており、定山渓温泉のことと知れる。慶応2年(1866年)に小樽で定山渓温泉のことを知った僧美泉定山が小さな小屋を作って温泉宿とした。札幌に新しい北海道の首府を建設していた開拓使判官の岩村通俊は、定山の求めを容れて1871年(明治4年)に定山渓温泉を訪れた。岩村はここに休泊所と浴槽を作らせ、湯守の定山に米を給与した。同年本願寺街道の検分の折りにここを訪れた東久世通禧開拓長官が、常山渓と命名し、これが後に定山渓に変化した。しかし、1874年(明治7年)7月に定山への給与は打ち切られた。当時は札幌の人口が少なく、温泉は経営的にほとんど成り立たなかった。
1877年(明治10年)に定山が死んだ後、1880年(明治13年)に佐藤伊勢造が温泉の経営を引き継いだ。客が少ないことは変わらず、周りに畑を開き、川で魚を得て生計を立てた。しだいに客が増え、1886年(明治19年)に高山今朝吉が高山温泉を開き、さらに後に鹿の湯温泉ができた。
1914年(大正3年)に豊羽鉱山の開発が始まると、定山渓温泉の本格的な開発がはじまった。温泉宿は改築され、新築の旅館も増え、その他の店や家も増加した。鉱山開発に伴って定山渓鉄道が1918年に開通した。それまで一日がかりで山道を歩いた苦労がなくなり、1929年(昭和4年)には所要一時間を切って日帰りもたやすくなった。この交通の便を得て定山渓温泉は札幌の奥座敷としての地位を確たるものにした。好景気のきっかけになった豊羽鉱山は1920年(大正9年)にいったん休山したが、温泉街と鉄道は互いに支えあって順調に発展した。
札幌市の戦後の急成長にともなって温泉街は回復した。1965年(昭和40年)に、定山渓観光協会は漫画家おおば比呂司の助言で河童をモチーフにした街づくりを始めた。かっぱ音頭を作り、かっぱ祭りを催し、そのために河童の伝説を創作した。豊平川の淵に身を投げた青年が、後に親の夢枕に立ち、自分は河童と結婚して沈んだのであり、今も幸せに暮らしていると告げたというものである。これ以後河童は定山渓のシンボルとなった。