有馬温泉

有馬温泉

有馬温泉は、日本書紀や古事記などにも記された『日本三古泉』

有馬温泉は、日本書紀や古事記などにも記された古くからの温泉で、『日本三古泉』と呼ばれています。また、「草津」「下呂」とともに『日本三名泉』の一つにも選ばれています。

阪から車で30分、神戸の中心街から20分前後の場所に

大阪から車で30分、神戸の中心街から20分前後の場所に日本最古の名湯がこんこんと湧く。六甲の自然に囲まれた温泉街は、狭い坂道が入り組み風情たっぷりの「関西の奥座敷」。「日本書紀」にも記載が残る古湯で、温泉寺を建立した僧行基が温泉の基礎を築き、12宿坊を開いた僧仁西が中興。そして、有馬を愛しねねと共に何度も訪れた豊臣秀吉が大規模な泉源の改修工事に着手し、有馬千軒の時代へ。阪神・淡路大震災の際、秀吉が愛湯したという湯殿が出土した。洪水、大火、震災と何度も危機を乗り越えてきた有馬の姿を見守った茶褐色の“金泉”と無色透明の“銀泉”。太古から変わらないお湯に、興亡の歴史をめぐらせてみるのもよい。 塩分と鉄分を多く含み褐色な含鉄強食塩泉、ラジウムを多く含むラジウム泉(ラドン泉)、炭酸を多く含む炭酸泉など多彩な泉質、「褐色の金泉」、「無色の銀泉」と呼ばれています。歴史的由緒があり、自然に囲まれ、散策も楽しめる温泉地として、愛されています。

有馬温泉特徴

泉質:ナトリウム塩化物泉、二酸化炭素泉、放射能泉など
効能:ナトリウム塩化物泉(切り傷、火傷、皮膚病、胃腸病など)、二酸化炭素泉(神経痛、筋肉痛、婦人病、リウマチなど)
特徴:日本三古湯の1つに数えられる名湯。鉄分を含み空気に触れると茶褐色に変わる“金泉”と、無色透明の“銀泉”が湧く。塩化物泉の金泉は体を芯から温め殺菌力が強いことで有名。「天神泉源」をはじめ高温源泉が5つあり、湯量は豊富。余ったお湯を有馬川に流すため錆び付いた川べりがあちこちに見られる。銀泉は、炭酸せんべいで有名な二酸化炭素泉と放射能泉の2種類。金泉は共同浴場「金の湯」で、銀泉は「銀の湯」で楽しめる。

有馬温泉歴史

神戸市にありながら山深く六甲山地北側の紅葉谷の麓の山峡にある温泉街で、古くより名湯として知られ多くの人が訪れている有馬温泉。温泉街はかなりの急斜面にあり、街中を通る道も細い。大きな旅館やホテルは温泉街の周辺や少し離れた山麓、山中にある。公的な外湯は「金の湯」(金泉)、「銀の湯」(銀泉)があり、観光客や下山客でにぎわっている。
旅館の宿泊料金は比較的高いとされているが、最近では一人一泊二食付1万円の宿も散見され幅広い客層がみうけられる。また、最近では日帰り入浴を楽しめる旅館が増えてきている。温泉寺の周辺に上記外湯2箇所と特産品店や民家が密集しており、のんびり散策する客が多い。
有馬温泉の歴史は古く、昔から皇族・貴族・文化人らに愛されてきた。日本最古泉とも言われる。631年に舒明天皇が約3ヶ月滞在したことが日本書紀に見られる。奈良時代には僧行基が温泉寺を建立。清少納言は枕草子で有馬温泉に言及している。1192年に僧仁西が戦乱で荒廃した有馬温泉を復興して湯治場としての原型を作った。豊臣秀吉は有馬を愛し何度も訪れ、更に温泉や周辺の改修を行い、今でも太閤○○と言う地名が残っている。
秀吉は、主君・織田信長の存命当時から、信長の中国遠征にそなえて温泉を通る有馬街道の普請(工事)を始めており、以前から有馬に注目していたふしがある。秀吉自身が初めて有馬温泉を訪れたのは、天正10年(1583)。非業の死をとげた主君に代わって、天下統一事業の後継者としての地位を固めつつあった時期だ。秀吉は大火や戦乱の影響で衰退していた有馬温泉に手厚い保護と援助を行い、再興に努めた。歴史と伝統のある温泉を復興させることで、新しい天下人としての器量を見せつけようとしたのである。
秀吉自身も豪華な別荘「湯山御殿」を建てさせ、亡くなるまでの15年間に実に9回にもおよび入湯に訪れている。苦楽を共にした正室・北政所(ねね)、淀殿や京極殿といった側室など家族を連れだっての“ねぎらいの湯”として、あるいは配下におさめた諸大名を招いての“もてなしの湯”として。それまで信仰や民間療法としての性格が強かった温泉での湯浴みに、秀吉は物見遊山の要素も加えていった。その意味でも、日本の温泉文化史上への貢献は大きい。